« 『140字小説』 | トップページ

2016年10月21日 (金)

『掌編小説集』

1.『序章』
 両手でバッグを抱えた痩せぎすの若い女が、鎌首を外壁からニュっと擡(もた)げて睥睨するガーゴイルを視上げ、遺跡かと視紛(みまご)う石造りの建物に入っていった。
 内川なる初老の警官が、居心地わるそうにカウンター内の机に齧りつき、文書を手にして読むふりをしていた。
 女は、「あの、お話ししたいことが……」と嗄れた声を発して内川を驚かせた。
 「えっ、ああどんなことでしょうか」そう言いながら、内川は苦虫噛み潰したような顔に愛想笑いを浮かべた。
 「多分ご存知の、さいきん起こった事件に関連することなんです」というと、女は青ざめた顔色を隠すように俯いてしまった。
 内川は、「お座りになって、これに記入を……」といって、机上に積み上げた更紙(ざらがみ)の一枚を女に差し出した。
 女は更紙を内川から受け取り、「昨日、郵便物が届きまして」といいながら、大事そうに抱えていたバッグから茶封筒を取り出した。封筒の表側には、宛先と共に向坂逸子(さきさか・いつこ)なる受取人名が、裏側には奥田俊朗と差出人名が手書きしてあった。
 内川は、二つ折りの文書を封筒から取り出すと机上に広げた。それは、400字詰め原稿用紙に印刷された小説だった。主人公は著者と同名になっており、内容は眉唾ものの予言書かと想わせる体のものだ。
今回の事件に直接関係ありそうな核心部分のみを拾い出すと、ざっと以下のようになる――「(前略)奥田は、しばしば徹夜でホラー小説を書く、売れない三文文士だった。(中略)早朝、3階の自室で珈琲を呑みながら、勤務先へと急ぐ勤め人の姿を眺めていた。通りを隔てた真向かいの高層ビルから、男が舗道に飛び降り、通行人2人を巻き添えにした。舗道に鮮血が飛び散り、辺りが騒然となった。(中略)奥田は3日前に書いた己れの作品の中に、よく似た描写があるのを想い出し、愕然とした。(後略)」
 たしかに、今回の事件の始まりはこの小説に酷似していた――最終章では、著者自身の死因にまで言及しているのだから、予言書のたぐいと視做してもあながち誤りではなかった。だが、奥田を真犯人と決めつけ、捜査を早々に打ち切ったのは妥当だったのか疑問が残った。
 内川の推論は、莫迦莫迦しい妄言ということになり、常識に凝り固まった署内の石頭連中と、掴み合い寸前の激論に到った。結局、内川の一ヶ月内勤という、当人にとって甚だ理不尽な謹慎処分でケリがついた。
 多少なりとも正義感のある者なら、内川を含め、ご都合主義ともとれる本件の措置には納得できなかったろう。
 小説そっくりな事件だったとはいえ、奥田の犯行とするだけの確たる根拠はなかった。しかし、最古参の内川と二人の新米刑事を除き、署内の大勢は捜査打ち切りの方向に向かい、早々(はやばや)と幕を降ろしてしまった。
 向坂逸子は、奥田の身の潔白を訴えるために、奥田が生前に投函したと思しい郵便物を警察署に持ち込んだ。しかも、受付の警官は署内で異論を唱え、幸か不幸か干されてしまった内川なるヴェテラン刑事だった。
人間の取るにも足りない考えを嘲笑うかのように、世界には不可解な事件が多発していた。しかも、邪教集団、秘密結社、諜報機関が三つ巴になって、目的のためなら殺人をも辞さない構えで暗躍していた。
 内川は、女から受け取った原稿と記入ずみの更紙を、机の抽斗に保管し施錠すると、署内の誰かに電話をかけた。
 「向坂さん、お宅までお送りします。玄関前に車を待機させてありますので、ご案内します」といいながら、内川は正面玄関を出て、階段の最上段で女が下りてゆくのを視送った。舗道に横づけした車の傍に、若い私服の刑事が二人、一人は運転席に座り、もう一人は車外で待機していた。
 女は身震いをすると、徐ろに階段を下りていった。だが、それから間もなく、女の全身が陽炎の如く揺らぎ始め、茫然自失している二人の刑事の眼前で消え去った。
 舗道に向かって階段を駆け下りてゆく途中、内川は狂気を含んだ笑い声が聴こえ、妖(なま)めいた死臭が辺りに立ち籠めたような気がして震え慄いた。
 そして突然、分厚い雷雲が天空に貼りつくと同時に、暗闇が地上を覆い悉くし、凄まじい稲妻が大気を引き裂いた。次いで、巨大な雹が地上に降り注いで地面を揺さぶり、天空と地上が逆転、終末を告げる弔鐘にも似た轟音が鳴り響いた。

2.『洋館』
 勤務先では孤立し、交際(つきあ)ってる木嵜雪江(きざき・ゆきえ)とは諍いが絶えず、鬼瓦真司(おにがわら・しんじ)は己れの人生を初期化してしまいたい最悪の気分に陥っていた。悪態が思わず口を吐いて出る――「十三日の金曜日……それがどうした。何奴(どいつ)も此奴(こいつ)も失せやがれ」。鬼瓦は仕事を放擲(ほうてき)、愛車のスカGでドライヴすることにした。独りで何処へか出かけ、憂さ晴らしをするには絶好な日だ。
 街中で駄菓子や飲料を調達、車に乗り込み、ダッシュボードからキオスクで買った、色褪せボロボロになった地図帖を引っ張りだした。郊外を抜け、山道を4、5時間すっ跳ばして山林地帯に突入、CDプレーヤーにピンク・フロイドの『狂気』を装填し再生した。テューンアップしたエンジンの奏でる重低音と、スピーカーから流れ出る金属を引き裂くような女の悲鳴が、眠気をふっ斬ってくれた。
 県境に差しかかり、鬼瓦はそろそろ疲労を覚えはじめた。車を道路脇に停めて、喫煙しながら缶珈琲を呑み、軽食代わりに入手したチョコバーを齧った。突然、嗤(わら)いが込み上げてきて吹き出しそうになり、口に含んだチョコバーを慌てて嚥(の)み込んだ。昔、吹き替え版で観た『コブラ』の台詞を憶(おも)い出したのだ。通称コブラなる刑事マリオンが相棒に向かって、「おめえはチョコバーばかり食ってるから、怒りっぽくていけねえ。自然食くえ」というのだ。
 『コブラ』に登場する、少々ランボーな刑事は通称をコブラ、本名をマリオンという。マリオンなる名称は女性名、男性名の両方で通用するらしい。相棒が、保護・移送中の被害者、売れっ娘モデルにそっと耳打ちする――コブラにマリオンと呼んでみろと。モデルにマリオンと呼ばれ、笑いながら「結構、気に入っている」と応えるコブラ。『コブラ』は映画ファンにとってはもちろん、主演のシルヴェスター・スタローンにとっても唯一の、ハードボイルド調にして、笑いを誘うソフトタッチの傑作だった。
 森林内をメガデスの『ファイナル・カウントダウン』を聴きながらドライヴ、いつの間にか、昼なお暗い山中に闇が忍び寄っていた。そろそろ森林地帯を抜けなければ、曲がりくねった山道を走り通すのは難しくなる。何処かに抜け道があるはずだが……そう思いながら運転して、もう何時間になるだろうか。しかし、街明かりは視つからず、鬼瓦は車を飛ばしながら不安を感じ始めた。道行く人に尋ねようにも、通行人はおろか野生動物さえ通らず、焦りと恐怖から全身が震えた。視覚えのある標識を発見しホッとしたのも束の間、何時間か前に目撃した標識なのに気づき、恐怖は頂点に達する寸前になった。
 いきなり浮遊感覚に襲われ、反射的にブレーキを踏み込んだ直後、壁にぶち当たる衝撃が襲ってきて車は急停止した。慌ててエンジンを停め、半ば朦朧としながら、懐中電灯を手にして後部ドアから車外に出た。愛車のスカGは古ぼけ崩れかかった幽霊屋敷然とした洋館の側面に、車体の半分近くをめり込ませていた。足許を懐中電灯で照らしながら、濡れた落ち葉を踏みしめ、建物を半周して正面に出た。
 何気なく前方を照らし、闇夜に浮かぶ建物の門構えを眼にして、鬼瓦は恐怖のあまり窒息しそうになった。それは昔、悪童らと忍び込んだ憶えのある、何時の時代のものとも知れない洋館だった。気味の悪さは今も変わりはなかったが、鬼瓦は視えざる力に引き寄せられるように、屋敷内に入っていった。
 1階の、水の滴る音がやけに反響するシャワー室を覗いてみた。天井を照らした瞬間、首筋の辺りを冷たい風が吹き抜け、冷水を浴びたように全身が寒気立(そうけだ)った。鬼瓦は蹌踉(よろ)めき、気が遠のきかけて壁に寄りかかった。壁に映った己れの影に、重なるように別人の影が浮き出し、ギョっとして跳び退いた。影は出入口に向かい、すり抜けるようにして外に消えた。
 恐怖感は疾(と)っくに頂点を超えていた。鬼瓦は何も考えずにシャワー室を出て、ふらつく脚を引き摺りながら大広間に向かった。天窓から差し込む月明かりが、辺りを薄ぼんやりと照らし出していた。
 悪い夢でも視ているような変な気分だった。鬼瓦は薄闇を透かし視るようにして周囲を視渡し、こときれた男の梁からぶら下る無慙な姿に絶叫した。
 次の瞬間、何かに躓いてバランスを崩し、後ろ向きに倒れて後頭部を強打した。眩暈(めまい)と吐き気を催して遠退きかけた意識が蘇り、鬼瓦は床に手をついて立ち上がろうとした。
 ザラッとした感触の塵芥が掌(てののひら)に付着、と同時に妖めいた鉄さびの死臭が鼻を衝いた。傍に、女の首なし屍体が転がっていた。鬼瓦は喚きながら外に跳び出し、数歩駆けて立ち止まるとソーっと振り向いた。蝙蝠に似た魔物が漆黒の闇から現れ、渋面に嘲りの笑みを浮かべると、双眸から不気味な黄金色の光を放って飛び去った。

3.『悪夢』
 猛暑つづきと寝不足がいささか堪(こた)えていた。経費節減最優先とあっては、隙間から吹き込んでくる風が、せいぜい凉しかったらと愚痴の一つも言いたくなる。先行き不安満載の会社だが、経営者の日下部に恩義があり、おいそれとは辞められない。自分ひとりの所為(せい)ではないとはいえ、他に手立てはなかったか、財務管理に失敗さえしなければ――そういう思いだけがつのる。株式市場からの資金調達なんぞ、まともな感覚でできるものではない。いっそのこと、相場師なるプロの投資家にでも任せるべきだったろう。
 経理課に席を置く河東(かわひがし)はサーヴィス残業を早々に切り上げ、設計課の同僚3人とネオン街に繰り出した。お互い三十ヅラさげながら、交際相手さえ視つけられない始末では、呑み屋で世の中を批判するくらいが関の山だ。嫁の来てがなければ、今のまま独身を通して朽ち果てるまでのことだろう。働きたくても働けない中年だっているんだし、仕事がありながら不平を言ったのでは罰があたる。
 批判の矛先は、世の中の話題から勤務先での疑問に到るまで、酔いに任せて気紛れに往来した――「COツーが温ダンカの原因なんれのは大嘘だっちゃ」、「ケツ煙者ば悪もろにして済むべーか」、「社のムノーな幹部らどもが業績悪化にコーケンしてるべ……有難てえこっらすな」。日頃の鬱憤を居酒屋で晴らすのは結構だが、舌が縺(もつ)れてしまっては折角の舌鋒も鈍(なまく)ら同然だ。別席で怪気炎を上げている、同業他社の酔っ払いを後目に、河東は割勘で支払いを済ませた。呑み屋を出て繁華街をふらつく中に、いつの間にか同僚らとはぐれ、ベンチで眠り込んでしまった。
 河東は寒風の吹き荒ぶ断崖絶壁で、ロック・クライミングをしている夢を視た。容赦なく体熱を奪い凍えさせる冷気の凄まじさにとつぜん目覚め、自宅の湯船に首まで冷水に浸かっているのに気づいて慄いた。酔いはおおかた醒めていたが、日頃の寝不足が祟ったか意識はまだ朦朧としていた。河東は身体から碌に水気を拭き取りもせず、ベッドに倒れこむとたちまち鼾をかきはじめた。
 目覚まし時計のたてるけたたましい音に跳び起き、時刻を確かめた河東は電車に乗らなければと思いながら、宿酔(ふつかよい)の頭を抱えてふたたび寝入ってしまった。親父とお袋の言い争う声が、がらくた同然の古びた受像機から雑音と共に聴こえてきた。疾っくに他界しているのだし、両親のはずはないのだが――。それは、隣家に住む老夫婦の怒鳴り合う声だった。人間は歳をとるにしたがって知識が増え、教養が高まって当然なのだが、現実にはまったく違った方向に突っ走る。
 寝過ごした河東は駅に駆け込み、慌てるあまり、反対車線のプラットフォームに出てしまった。踵を返して急ぐが、連絡通路が視つからない。振り向いた河東の面前に、眼に視えない壁が立ちはだかった。次の瞬間、何者かが鉤爪を伸したでかい手で、河東の袖を鷲掴みにすると強く引っ張った。アッという間もなく壁を突き抜け、奇妙な構造の回廊に出ていた。河東は不吉な予感を覚えながら、遠ざかってゆく何者かの足音を追っかけた。
 気がつけば、大量の乗降客を掻き分け、狭い階段を上へと急いでいた。最上段に達し、通路を反対側に向かって走り、異臭の立ち籠めた、がら空きの電車に跳び乗った。座席から何気なく窓外を眺め、いつも視慣れた風景とは違うのに気づいた。大気の色は紫色に近く、道行く人の気配すらない。車窓から視えるのは、捻くれた樹木や毒々しい色の花を咲かせた雑草ばかり――乗り場を間違えたのだ。次の停車駅で別方向に向かう電車に乗ると、待ち構えていたように直ぐさま出発した。
 通勤電車というより、ばらばら屍体を満載し、地獄に向かう霊柩車両を想わせた。乗客の顔色は一様に青褪め、ホラー映画に登場する吸血鬼にそっくりだった。それが事実なら、太陽の放射光の下では、たちまち燃え上がり灰燼に帰するはずだが――。大気の色は紫色の異様な度合いをますます深め、乗客は恐怖のあまりに凍りつくか、仮死状態のまま微動だにしなかった。
 蝙蝠によく似た巨大な鳥が、電車の進行とは逆方向に、群れをなして飛んでいるのが視えた。悪夢に登場する、吸血蝙蝠か邪悪な霊さながら、両眼から黄金色の不気味な光を発し、牙を剥き出して視界から消えた。黄金色の光が河東の眼を刺激し、束の間だったが、死の世界を想わせる光景が眼前に現れた。頭を震って幻覚を追い払い、焦点の定まらぬ眼で窓外を視た河東は、恐怖のあまり絶叫した。電車は天空にまで届く髑髏の山を、掻き分け轢き潰しながら疾駆していた。
 数日後、地方紙三面に河東の凍死を伝える記事が載った。熱帯夜の続くこの八月に、冷凍庫にでも入っていたようにコチコチであったという――死に顔は安らかだったとか。関係者は、死因について一様に沈黙したままだ。

4.『時空』
密林に迷い込んでから、半日間、休みなしに歩き続けていた。久我山は、喉の渇きと眩暈のあまりの激しさに昏倒してしまった。それから数時間後、両脚に凍えたような痛覚を覚え意識を回復した。何時の間にか陽は天球の真上にさしかかり、波が大小無数の氷片と共に、砂浜に打ち寄せていた。精神錯乱を起こしていたのだろうか、岩山の天辺(てっぺん)めざして登攀していたのまでは記憶に残っていた。中腹に辿り着き一息入れようとしていて、頭上から時報が聴こえてくるのに気づき、その出処を確かめるべく起ち上がった覚えが――。
 疲れてはいたが好奇心には勝てず、休憩せずに登攀を続行した――ような気がする。疲労が頂点に達し、脚が悲鳴を上げ始めていた。折よく、岩石を刳(く)り抜いた住居と思しい、洞窟の近くに辿り着いた。一階部分はおおかた砂塵に埋もれ、背を屈めた程度では入っては行けなかった。シャベルで砂を掻き出し、内部へと這い進んで起ち上がった。コチコチと規則正しく、時を刻む音が足下から聴こえてきた。久我山は砂を取り除け、ほとんど原型を留めていない、掌大の毀れた器械を掘り起こした。時を刻む音を追いかけるように、別の異質な音が忍び寄ってきた。久我山は名状し難い違和感に寒気立つのを覚え、逃げるように洞窟から這い出した。
 岩山の登攀を再開して間もなく、厚い霧が垂れ込め、気温が上昇しているのに気づいた。頭が何かに打つかり金属音を立てたその音に、久我山は驚いて跳び退いたのを憶い出した。次第に霧が晴れ、巨大なUFOが音もなく遠ざかって行くのを呆然として視送ったような気がした。太陽が激烈な放射線を容赦なく浴びせ、それに呼応して熱風が吹き荒れた。久我山は堪(こら)え切れずに、その場にへたり込んでしまった。その時リュックサックの中に、入れた憶えのないあの奇妙な形状の、時計に似た器械が入っているのに気づいた。
 こんな時に、ラム酒のオンザロックでも呑めたら――そう思った直後、リュックを左脇に抱え、右手にオンザロックのグラスを持って、洒落た酒場のスツールに腰掛けていた。スタンレー・タレンタインの奏でるテナー・サクスフォンのファンキーなジャズが、ひっそりと静まり返った店内に鳴り響いていた。しかし、スツールに座る久我山を除き、客はおろかバーテンダーすらいなかった。気配はするのだから、久我山に視えないだけで、実際には存在しているのかもしれない。此処は一体、ロンドン、ニューヨークそれともトーキョーなのか、あるいは三途の川の向こうに在るとかいう異形の世界なのか。
 怖気を慄(ふる)った久我山は、リュックの中にある奇妙な形状の、時を刻む器械に手を触れながら念じた。両親、兄弟、姉妹、友人、別れてしまった元女房――視知った人なら誰でも好い、とにかく誰かに会いたい。これまで十分に、孤独に苦しんできたのだし、なにかと束縛の多い普通の生活に戻らねば――。何時の間にか、久我山はリュックを担ぎ、空のグラスを手にして高層ビルディングの林立する通りを歩いていた。一見したところ、何処にでも視かける建物ばかりだが、奇妙なことに昼間にも拘らず通行人がまったくいなかった。それとも、久我山に視えていないだけか――。
 天空からは太陽が強烈な放射光を浴びせ、昼間の外出が如何に危険かを明示していた。ところがそれから数分後、久我山は複数の通行人とすれ違う気配を感じた。中には、すれ違いざま声をかけてくる者がいたような気がした。しかもそれだけではなく、話し声や叫び声にくわえ、誰かと打つかる衝撃までが肩や手足に伝わってきた。空気圧か振動が、大気を揺るがしていた――久我山は己れの精神状態を疑いながら、そういった感覚に囚われ身じろぎもできなかった。ひょっとして、狂っているのに自分で気づいていないのか?認めたくないが、もしそうだとすると、眼前に次から次へと現れ変転する不可解な現象は、自身の精神状態の顕現なのかもしれない。
 狂った精神が異常な物質世界を構築し、何時の間にかその世界が現実となり、逆に狂った精神を支配し破滅に向かって内部崩壊を起こし始めるのだ。久我山は幼くして強度の狂気を発症し、それに気づいた両親をいたく悲しませた。外部に知れるのを極度に畏れた両親は、久我山を地下の座敷牢に閉じ込め、無学にして善良な村人から隠した。人里離れた地に建つ一軒家では、滅多に訪れる者はいない。両親は狂った息子を隠し遂せ、座敷牢に閉じ込めたまま死に絶えた。
 両親が健在な中は極く普通の食事をしていた久我山だったが、両親の死後、座敷牢に迷い込む昆虫や小動物を捕らえて飢えを忍ぶようになった。村人はこの一軒家の周辺で怪奇現象が頻発するのを噂しあい、気味悪がって近づかなかった。ある日、駐在が一軒家を訪れ、家屋内に成人二体の白骨屍体を発見した。久我山の存在や行方を知る者は誰もいない。

5.『夜警』
半ば意識朦朧の状態で、深夜映画を視るともなく視てしまった。元来、胆力に乏しい遠山は、夜更けに化け物の出てくる映画は鑑賞しないことにしていた。偶々、したたかに酔ってしまい、受像機を消し忘れたのだった。途中からなので何という映画か、結末がどうなったのかも分からなかった。一気に酔いが醒めてしまうほどの、怖さだったのだけは憶えていた。深夜、火災事故に遭ったデパートを、元刑事の警備員が独りで視廻る――といった内容だった。そのデパートには、床から天井まで届く巨大な鏡があった。鏡は異形の世界を映し出し、近づく者に災いを齎すだけではなく、警備員の家族にまで触手を延ばし始める。この元刑事には、勤務上の一寸した嫌疑が降りかかっていた。それが因(もと)で停職を喰らい、同僚が復職できるよう工作中だった。
 居酒屋で呑んだ焼酎の酒精分がまだ血中に残り、酔いが醒めるには時間がかかりそうだった。さして強くもない呑み介の遠山は、前夜、居酒屋で知人の菅井と、お互いの再就職をささやかながら祝った。菅井は不動産会社の営業職に、遠山は警備会社の深夜専従警備員に決まった。前職とは異なる職業に就くのだから、お互い不安がなくもなかった。だが、時勢が時勢だけに、決まっただけでも幸運だったといえる。官制職業紹介所の常連となった二人は、同郷の出身と分かった後、昔からの親友同然になっていた。何処かで誰かと血の繋がっていそうな、そんな地方の忘れ去られた僻遠の地の生まれだったのだ。
 遠山は、消し忘れた受像機から出る、異様に明るく妖気ただよう光に反応し目を覚ました。喉に焼けつくような渇きを覚え、起き上がって暗闇の中を洗面所に向かった。その途上、柱時計の午前2時を告げる、不気味な時報にギクっとした。廊下の突き当りにある洗面所に辿り着き、洗面台に置いたグラスに手を延ばそうとして、一瞬だが絶叫しかけた。壁からニューっと、手が出てきたように視えたのだ。自分の手が鏡に映っていたにすぎなかった。深夜映画の怖い場面が脳裏に焼きつき、元来が臆病な遠山は歯をガチガチいわせ、身体を小刻みに慄わせた。たかが映画とはいえ、想像が勝手に映像から恐怖を抽き出し増幅させる。子供っぽいといってしまえばそれまでのことだが、背後に何かが忍び寄ってくる――そう想っただけで慄えあがってしまうのだった。
 消した受像機やモニターの真っ暗な画面に、己れの姿が映っただけでも、寒気立つのだから病的なのかもしれない。誰もが何らかの疾患を抱えているなら、少しは慰めの足しにはなるかもしれないのだが――。選りにも選って、深夜専従なんぞに決まるとは、どういった運命の巡り合わせなのか。少しは鈍感になれよという、先祖からの戒めの意味でもあるのだろうか。逃げてばかりでは、どうせ碌な奴にはならない。度胸試しを兼ね、深夜勤務に就くのも悪くはなかろう。他に誰もいない深夜の高層ビルディングの中では、救けを期待する方がどうかしている。そういえば、外国のSF映画の宣伝に、「誰にも、何処へも叫びは届かない」とかいう、絶体絶命を想わせる苛烈な一文があったな――。
 勤務の初日、早目に出勤した遠山は、眼前に威圧するように聳える、薄汚れた三十三階建てのビルディングに眼を瞠(みは)った――悪霊(あくりょう)の巣窟を視る想いだった。遠山は一階の詰所に忘れてきた懐中電灯を気にしながら、何かが潜んでいそうな最上階の暗く長い通路を急いだ。闇が前後左右から迫り、遠山をがんじ搦めにしようとしていた。その場から悲鳴をあげて、逃げ出したい衝動を抑えつつ大股で突き進んだ。初めは点のように小さかった影が視る間に大きくなっていった。遠山は自分が、どれほど急いで歩いているかに気づいていなかった。紅く反射する光と黒っぽい影が前方に、チラついているのが視えた。灯りと影が視る間に大きくなり、アッと叫ぶ間もなく壁にぶつかった。常夜灯の紅い灯りと己れの黒い姿が、防火扉に映っていたにすぎなかったのだ。
 一週間後、菅井と居酒屋で落ち合った。「どうだい、深夜勤務の印象は」とジョッキ片手に菅井。「ふむ、精神の鍛錬ってことなら、これほど適切な仕事はないだろな」枝豆をつまみながら応える遠山。「営業だって、結構、度胸というかハッタリというかそういった強さは要るんではないか」こもり気味の声で訊く遠山に、「ああ、事務職しか経験のなかった俺が、まさか営業をやろうとは想像もしていなかった。初日には、上手く応対できずに膝が震えたぞ」と応えながら笑う菅井。「怖いと思うことはないか」そう唐突に訊く菅井の表情に、遠山は一瞬だが恐怖の影が過ったように想った。「怖くないといえば嘘になるが」そういうと、遠山は遠くを視るような眼つきをして笑った。「うむそうか、お互い乗りかかった船だ。何処まで行けるか確かめようじゃないか」という菅井に、遠山は頷くとジョッキを持ち上げ、辛口ビールを呷(あお)った。

6.『共鳴』
森林内を走る迷路のような車道を、津田夫妻は期待と不安を抱いてドライヴしていた。郊外のちっぽけな不動産屋で貰った地図には、小高い丘の天辺に一軒の売家を示す図が書き込んである。ピラミッド形の苔むした奇妙奇天烈な外観なので、森林浴に浸りながらドライヴする中に視つかる、との無責任かつ楽天的な担当者の説明に軽率にも即断してしまった。運転しながら、UFO研究家の津田真之介は、複雑な表情で前方に広がる景色をそれとなく注視していた。助手席に座る細君の翠(みどり)は、イアフォンから聴こえてくる不快な音楽に耳傾けながら、うっすらと恐怖を表情に浮かべて身じろぎしない。絶叫が鼓膜を叩き、脳回路がショートしてしまうのではないか、と思うほどの凄まじいロック音楽だった。大学で哲学を専攻し将来を嘱望されながら――恩師の怒りをものともせず――音楽評論家としてデヴューしてしまった翠は、古典哲学にしろ前衛音楽にしろ、学ぶには大差はないと思っていた。
 夫妻は今の借家を引き払い、中古の手頃な一軒家を入手するのが念願だった。
十二畳もの洋間の大部分を占める書棚には、書籍や音楽CD、映画DVDが溢れ返るほど詰め込んであった。大学修士課程に在籍する息子の大介は幼い頃よりロック音楽に熱中し、到頭、友人らとロックバンドを結成してしまった。よりにもよって、独り立ちの難しい哲学を専攻した挙句、ロックにのめり込むとは、いったい何を考えているやら――。そういう夫の真之介だって、UFOマニアなのだから似たり寄ったりだった。妻の翠は、夫も息子も図体が大きいだけの子供にすぎないと理解していた。世の中には良からぬことに耽り、挙句の果てに犯罪に手を染めてしまう気の毒な人々がいる。正真正銘の狂人に比較したなら、ロックファンやUFOマニアなんて無邪気なものだ。イアフォンから聴こえてくるような、不気味なロックでなければ――社会に害悪を広める訳ではなし、夢中になれるだけでも幸せというものだ。
  それとなく周囲を眺めながら運転していた真之介の、ちょうど森林の途切れた眼前に、苔むしたピラミッド状の小高い丘が視えてきた。道路は手前で急激に折れ曲がり、よほど迂闊なドライヴァーででもなければ、跳び込んでくるその偉容に眼を瞠るにちがいない。地上からピラミッドの頂点までおよそ300メートル、車でならなんなく辿りつけるのだが――そう思いながら近づいていった夫妻は、横から上に向かっていると思われる、車一台がなんとか通れそうな道路を発見した。螺旋状になって上まで通じているらしいと分かり、そのまま進むうちに、奇妙な形状の一軒家の前に到達した。ドアに「ご自由に御覧ください」との貼り紙があり、把手に手をかけるかかけない中に、ガリガリギシギシと耳障りな音を立てて開いた。驚いた夫妻はそれでも、勇を奮い起こして中に入っていった。紫色の光を発する照明が足許を照らす。
 一階は身体の向きを変えるだけで、展望できる大広間になっていた。片隅にロフトに通じる、金属製の梯子が備え付けてあった。ロフトは屈む必要があったが、書斎にはもってこいだった。他に物色している人が現れない中に、契約してしまわないと、こういった手頃な住居には滅多にお目にかかれない。夫妻はそう気づいて、ドアの閉まる耳障りな音を聴きながら売家を後にした。不動産屋には、地図をくれた社員はおらず、耳の遠いオバさんが留守番をしているのみだった。不安と失望を表情に現すまいと努力しながら、オバさんに件の売家について話すと、心得顔で契約書を持ってきた。必要な箇所に記入し終わり、契約書の写しを受け取った。ざっと内容を確かめた限り、支障なく契約が成立したことが分かった。何事にもせっかちな二人は、息子には事後報告ということにして引っ越しを済ませることにした。
 知人の経営する便利屋に連絡して間もなく、知人は屈強な若者二人を大型トラックに乗せてやってきた。大広間を2台の大きな書棚で仕切り、一方をキッチン、他方を居間兼寝室とすることにし、ロフトに大型の机1台、椅子1脚、ダンボール箱数個をロープを使って引き上げ、引っ越しは瞬く間に終了した。一同そろって、質素な引っ越し祝いを行なった。談笑しながら喫煙し、それからしばらくして知人は二人を伴って引き上げた。真之介は、書棚からユングの著書を取り出し、ページを捲っていた。挟んでおいた栞(しおり)が、ハラリと床に落ちて直立した。夫妻の眼前で、その栞は浮き上がると宙を漂い始めた。ヴェランダに出て視上げる夫妻の頭上に、巨大なUFOが音もなく浮いていた。手を振る二人に、UFOは船体を揺らせて消えた。驚愕は収まったが、昂揚状態は容易には鎮まらない。夫妻は興奮を抑え、蔵書や収集品を書棚に収納した。ほっとして、喫煙し珈琲を飲んで寛いでいると、家全体が激しく揺れ宙に浮き始めた。家は真之介の脳波に反応した、異星人の遺棄船だったのだ。

7.『幻覚』
カフェインの過剰摂取は健康を損ね、挙句に幻覚を視る恐れがあるとか。仄聞だが、睡眠不足や不眠症はカフェインに劣らず精神障害を起こすともいう。そういった危機的状況に陥るのは、却って几帳面な人間に多いのは論を俟つまでもないだろう。上嶌左右吉(うえしま・そうきち)は親の付けてくれた大時代的にして畏れ多い名前に辟易しながらも、名に恥じない人間になるべく、日頃の鍛錬を怠らない。眠れない夜が続き思考力が鈍ってはいたが、早朝からキーボードに向かい、名文を叩き出すべく苦闘していた――視果てぬ夢ではあったが。
 夜中の2時に就寝し、明け方5時に起床するのが、何時頃からか上嶌の日課になっていた。日がな一日、モニターの画面を睨み、一行も書けずに終わる日々が続いた。熱帯夜の襲いくる真夏には、極寒の真冬によりも不眠症に苦しんだ。猛暑期の熱風はまるで、精神的鍛錬を嘲笑うかのように上嶌に纏わりついた。夕方、何人かの同好の士と、会合を名目とした呑み会を催すことになっていた。会合の時刻までには余裕があったので、上嶌は時間潰しと涼む目的で海岸へと向かった。
 日が陰ってきたとはいえ、西日の差す午後の日差しは侮れない。ヘルメットを被り、マウンテンバイクのペダルを踏みながら、日陰の多い裏通りを走った。海岸に近づくにしたがって、涼風が塩の香りを伴って吹いてきた。上嶌は車道から砂浜に降りて行って、日没間際の水平線に沈んでゆく真っ赤な太陽を眺めた。その時、なんの前触れもなく打ち寄せる波と共に、一陣の凍えるような冷気が沖合から浜辺に向かって吹いてきた。その風に乗って寒気立つような、得体の知れない半透明な何かが上嶌を襲い、一陣の冷風と共に後方に去っていった。
 風の中に潜むそれが上嶌に纏(まと)わりついていた時間は、一瞬あるいは数瞬だったかも知れない。太陽が水平線の彼方に没し、呆然と佇む上嶌の周辺を闇が覆い始めた。上嶌は憶い出したようにマウンテンバイクに跨がり、待ち合わせのカフェへと急いだ。カフェの軒下にバイクを立てかけ、ヘルメットをバイクに固定して、店内に入っていった。喫煙しながら談笑していた四人が、一斉に上嶌の方を振り向いた。四人の戸惑ったような視線や強張った表情に、上嶌はなにか尋常でないものを察知し驚愕した。
 「どうした、顔が真っ青だぞ」5人の中で最年長の佐和田が、上嶌をしげしげと眺めながらそう言った。上嶌の表情が余りにも異常だったか、上嶌を注視した佐和田は、吸い殻が膝の上に落ちたのに気づいていなかった。
 「う、うん」相手の只ならぬ表情から、上嶌は自分の顔色を想像して怖気を慄った。 「身体が、小刻みに慄えてるじゃないか」と言いながら、自身が慄えているの気づかないのは、佐和田の真向かいの席に座っていた唐沢だった。
 「時間的に余裕があったし、あんまり暑いんで、夕涼みがてら海辺に立ち寄ったんだ」そう応えながら上嶌自身、慄えが止まらない。
 「で?」隣り合わせに座っていた大橋、越川が、漂う煙草の煙の内側から、上嶌を透かし視るようにして同時に訊いた。
 「ああ、沖の方から陸(おか)に向かって冷気が押し寄せてきたんだ」上嶌は気楽を装ってはいたものの、四人の反応に寒気立つ思いだった。
 「そ、それで」四人が一斉に上嶌の方を向いて、怖いもの視たさの興味と視るのを躊躇(ためら)う恐怖の混在した表情で先を促した。
 「目鼻のない女が海から上がってきて、近寄ってきて、吹き抜けるかどうかして……後方に失せた」そう応えながら、上嶌は後ろに気配を感じ、確かめようとしたが身じろぎできなかった。上半身を強引に捩じ向けると、そこには虚無の空間が広がっているばかりだった。
 上嶌は金縛り状態から逃れようと、無駄な抵抗と識りながら、悪夢の去るのをひたすら念じ続けた。カフェにいた四人は何時の間にか帰ってしまい、カフェそのものも眼前から消え去っていた。もう一度ふり向いた先には、買ったばかりのモニターが机上にデンと構えるアパートの一室があった。そこは上嶌の住む借家の書斎だった。モニターを前にして、椅子に腰掛けたままうたた寝をしてしまったか。モニターには、上嶌自身の椅子に腰掛けた姿がぼんやりと反射していた。
 確かめるまでもなく、モニターはコンピュータ本体同様に電源を切ってあり、コンピュータからの映像は映っていない。モニターの正面を向いた上嶌の顔が、本人の意志に反して真横を向いていた。本人は正面を向いたままなのに、モニター上の反射映像はなぜか横向きになっていた。しかし、よくよく注視したところ、本人の正面
顔に重なるように別人の横顔が映っていたのだ。その顔が、驚いて視ている上嶌に向かってニーっと笑った。絶叫しそうになりながら、そのとき上嶌は気づいた。横顔を視せて笑っているのは、海から上がってきたあの目鼻のなかった女だと――。

8.『仔猫』
 単独でツーリングに出かけて道に迷った挙句、運悪く日没に出っ会わしたりすると、異界にでも迷い込んだ想いをするものだ。親父といわれる歳にさし掛かった独身の都筑肇(つづき・はじめ)は、久方ぶりに3日間の休暇を取得した。さして座り心地のよくない、管理職の椅子にもなんとか馴染み、冗談をいうまでになった肇だが、妻帯者ばかりの同僚や部下に、なんとなく自分とは異質なものを感じ、気後れがしてしまうのだった。
 肇の住まいは、軒先からガーゴイルの睥睨する、苔むし古色蒼然たる洋館だった。不動産会社の担当氏によると、山中に在った洋館の周りは徐々に開発が進んで高級住宅が立ち並び、一大ベッドタウンに変貌してしまったのだという。曰くつきの物件らしく、他の住宅が遠巻きにする中、鬱蒼と茂る樹木が建物を覆い隠し、洋館の存在を外部から隠していた。誰もが敬遠していたのを、これ幸いと肇が格安で買い取ったのだった。気味が悪いといってしまえば、それまでのことだが、肇のような変わり者にとっては、精神を鍛錬するにはもってこいの住まいだった。
 この際、会社の煩わしい諸事万般を脳裏から追い出し、独りツーリングに出かけるのが一番の気晴らしになるだろう。そう思い立ったら、高校生の頃の血が騒ぎ出し、肇は休暇初日に早々と起床、愛車のDucati(ドゥカティ)を調整し始めた。田舎住まいの両親に余計な心配をかけまいと思いながら、肇はモーターバイクでのツーリングを止められなかった。事故に遭遇したら、普通乗用車の何層倍も単車の方が危険なのは承知していたが、こればかりは譲れなかった。
 長身にして容姿端正な肇なら、異性の一人や二人はいそうなものだが、周囲からは浮いた話は聴こえてこない。なんでも、数年前、交際っていた時岡柚子(ときおか・ゆず)と二人でロック・クライミングに出かけて事故に遭い、柚子を失った痛手からまだ回復していないのだという。大学を卒業し、会社勤めを始めて間もない土曜日、街中にあるスポーツ施設に出かけた肇は、壁を素手で攀じ登っていく細身の若い女の強靭な体力に瞠目した。それが柚子との最初の出遭いだった。
 高処恐怖症の肇には、視ているだけで目眩を起こしてしまいそうな光景だった。肇は、「インストラクターでもなさそうだが……」と思いながら視いる。なんの苦もなくするすると降りてくる姿を、呆然と眺めている肇に気づいた柚子は、つかつかと近寄っていって艶然たる笑みを浮かべ、「あなたも試してみたら?」と甲高い声で話しかけてきた。「高処恐怖症ってやつでして、1メートルでも高いところは苦手なんですよ」と応える肇。それで「あっそう……」と引き下がる柚子ではなかった。お互いに魅きつける何かが、あったということだろうか――。それからの数週間、柚子の指導よろしくロック・クライミングを始めた肇は、高処恐怖症を克服できそうな予感に、子供の頃に還ったようにその虜になってしまった。
 北に向かって跳ばすことおよそ3時間、二人で登攀に挑戦した険阻な岩山が、ドゥカティに乗る肇の視界に入ってきた。事故に遭遇して以来、訪れるのが最初なだけに、全身に戦慄が走る想いだった。岩山の麓に辿り着き、ドゥカティを停めて周囲の叢に一瞥をくれた。揺れ動く叢から黒に近い灰色がかった一匹の仔猫が現れ、肇を視ると近寄ってきてか細い声で鳴いた。仔猫は異様な感じの両眼を除き、美形といってもよい優美な姿をしていた。岩山を視上げ、叢から出てきた仔猫を視下ろし、そーっと両手を差し伸べた。仔猫は擦り寄ってきて肇を視上げ、ふたたびか細い声で鳴いた。仔猫の右目はゴールド、左目はプラチナの輝きを発していた。肇は仔猫を抱き上げると、おそるおそるブルゾンの内ポケットに入れ、ドゥカティを発進させた。
 ツーリングしながらぼんやり考え事をしている中に、肇は何処を走っているのかまったく分からくなってしまった。モータバイクを路側帯に停め、地図で該当箇所を照合してみたが、それらしい建物や標識はおろか地形の一箇所も一致しなかった。そればかりか、山道を走ってきたのだから、森林地帯なのは当然としても、生えているのはまったく知らない樹木ばかりだった。違った世界にでも迷い込んでしまったらしい。足下からヅグワッヅグワッと、恐怖感が這い登る感覚が襲ってきた。自分であって自分でない、絶叫したくなる違和感が身体全体に浸潤し、完全に自己喪失に陥ってしまった。
 地中から生えてきたか、苔むした廃墟と視紛うばかりの、オドロオドロしい建物の間を廃人同然の老若男女が十数人そぞろ歩いていた。一体ここは何処なのだろう――肇は場末の映画館で、何時の時代とも知れない映画を観ているような感覚に囚われていた。痩せっこけた少年と少女が、薄暗い洞窟内を彷徨(うろつ)き、寛げそうな場処を探していた。大柄な猫に似た動物が一匹、二人を追いかけてきて、ねだるように少女の脚に鉤爪をかけ、どら猫のような鳴き声を上げた。
 頭上から柚子の「猫が……」と叫ぶ、驚きの声が肇の耳に届いた直後、柚子が肇の横をかすめて落下していった。柚子とツーリングに出かけ、途中で予定を変更して岩登りに挑んだのがいけなかった。いとも容易(たやす)く絶壁を征服、八合目あたりに差しかかった時だった。天辺に辿り着いたら、還りはワイアーロープを垂らして一気に降りよう――肇がそう思った直後に事故が起こった。猫が岩場の、しかも絶壁に生息しているなど、いくら野生の猫だろうと考えられない。
 ケアルという、A.E.ヴァン・ヴォークトの『宇宙船ビーグル号の冒険』に登場する化け猫なら、あるいは絶壁など平気の平左だろうけど――。そんなことでも考えていなければ、事故に遭った柚子の惨(むご)たらしい状態を、想像しただけでも身の毛がよだつのだった。地上に降り立った肇は、叢に横たわる柚子の無慙な姿を発見、全身打撲の瀕死の様に嗚咽を抑えきれなくなり、身体を震わせて慟哭した。
結局、救急車の中で息を引き取った柚子は、肇の手を握りながら「猫が……猫が……」とそればかり呟きながら、あの世に旅立った。
 日没間際の山中に暗闇が訪れ、気温が下がり始めるのは速かった。ブルゾンの中で仔猫がくしゃみをしたのが聴こえ、肇はやっと我に還って、辺りを不審そうに凝視した。気の所為か、一瞬だったが、大気に揺らぎが生じたように視えたのだ。肇は標識らしい、緑青の浮いた銅板を打ちつけた杭があるのに気づいてそれに視入った。その標識からは、次のような表示がなんとか読み取れた――「過疎郡奇っ怪が邑大字崖っ淵」。なにかの冗談だろうか――そう思いながら、肇はドゥカティに跨がり帰路を急いだ。
 途中で個人商店に立ち寄り、夕食用の食糧と一緒に、仔猫の好みそうなキャット・フードを調達した。住まいの横にドゥカティを停め、ドアを開けて中に入り、玄関のライトを點けようとスイッチに手を伸ばしかけ、眼前に人の気配を感じてぎくっとした。仔猫がブルゾンの中で、低く唸ったのが聴こえ、それと同時に気配は消失した。仔猫にミルクとキャット・フードを与え、肇は買ってきたばかりのフランスパンにかぶりつき、辛口ビールで流し込んだ。喫煙して寛いでいる最中、玄関で視た幻は柚子だったのではなかったかと気づいた。と同時に全身に戦慄が走り、思わず起ち上がると、北の方角に向かって合掌し、小声で呟いた――「柚子よ、迷わず成仏してくれ。この仔猫は君の替りと思い大事に育てるから、心配しないで」。

9.『鬼瓦』
 自社ビルディングの屋上で、二人の社員が喫煙しながら話し込んでいた。新興企業の中で最も業績好調な電気メーカー「雷おこし」は、奇抜な社名が幸いし、知名度も業績も鰻のぼりだった。初任給では大メーカーに少々後れを取ってはいたものの、製品の市場占有率では国内の同業他社を圧倒していた。現状を今後も堅持できるなら、同社は緒外国の大企業をも追い抜いてしまうにちがいない。
 「業績好調なのはいいとして、社屋内の何処にも喫煙室がないなんて、社長がいくら煙草嫌いだとしても愛煙家を冷遇してないか」猛烈な勢いで鼻からモクモクと、白い煙を噴き出しながら先輩格の宮元一石(みやもと・いっこく)が渋面を作って相手に話しかけた。
 「以前、社長は愛煙家というより、チエーン・スモーカーだったそうですね。いったい、何があったのでしょうか、喫煙者を社屋内から締め出すなんて」新米社員の古河禄郎(ふるかわ・ろくろう)は、ちょいと気取った恰好で煙草を咥え、西部劇の保安官口調で応えた。
 「それなんだよ、屋上でこそこそ喫ってる此方の身にもなってくれってことだな。嘗(かつ)ては、愛煙家だったのなら、煙草なしでは生きられない我々の、苦境を少しは考慮して欲しいもんだ」宮元は古河をからかうように、時代劇の岡っ引き風な声色で返した。
 二人が冗談で盛り上がっている処へ、背高ノッポの菱岡桜子(ひしおか・さくらこ)課長が足音もなく近づき、左右の掌で二人の肩に軽く触れた。驚いた二人は仰(の)け反(ぞ)るように視上げ、苦笑いをしながら会釈をした。
 「あなた方、こんな処で煙草を喫(す)っているのを社長に視つかったら、夏の賞与にひびくわよ」と言いながら、課長はにっこり笑うと、手品師顔負けの手捌きも鮮やかに、火の點いていない煙草を口に咥えた。洟垂れ小僧よろしくその動作をポカンと視ていた二人は、悪さをしている現場を視つかった小学生気分に陥った。
 「課長は煙の出ない煙草を、咥えているだけで満足なのですか?そういえば、喫煙している姿をお視受けしたことありませんね、一度も……」古河は菱岡課長を、異人種に対する眼つきで仰ぎ診ながら、そういうと俯いてしまった。
 「何時までも息抜きしてないで、きっちり仕事なさいよ。成果を上げないと、私が責任を取らないといけなくなるんだから」そういうと、課長は煙草をブレザーの内ポケットに蔵(しま)い込み、二人をその場に残して立ち去った。
 「ほんの一瞬だったが、大眼玉を喰らうかと想ったぞ……やれやれ」宮元が大袈裟に胸を撫で下ろす真似をしながら、深く吐息をつくと、新たに煙草を取り出して火を点けた。
 「そろそろ戻りましょう。課長に睨まれたら怖いですからね。なにしろ、社内には密かに鬼瓦だなんて綽名を、付けている一派がいるらしいですから……悪気はないんでしょうけど」古河はそういうと、宮元を放ったらかして社内へ戻りかけた。
 「そうビクつくこたあーないぞ。確かに鬼瓦のような面相をしているが、あれであの課長は想い遣りのある姐御なんだぜ、知らないだろ」そういいながら、宮元の方はにやにや笑うと、煙草を携帯灰皿の中で揉み消した。
 連日の超過勤務で、古河は疲労困憊していた。終電車に辛うじて間に合い、帰宅したのは夜中の2時ちかくだった。両親は疾うに就寝しており、食卓に手書きのメモがあった。食事をする元気もなく、冷蔵庫から缶ビールと、おふくろの手料理を出した。2、3口のんだら忽ち酔いが回り、睡魔が襲ってきた。
夜中に小用を足し、校舎によくある手洗い場で手を洗った。手探りで廊下を奥へと進み、うっすら灯りの漏れる右手の広い部屋に入った。何人かが布団を被って寝ていた。綺麗に梳いた短い銀髪の老婆が、寝返りを打った。花崗岩のような顔を此方に向けて、切れ長の昏い眼で古河を凝視した。一瞬だったが、老婆の怖い顔が天女の顔にすり変わったかに視えた。その時、古河は夢から醒めた。
 食卓に突っ伏して、何時の間にか、不覚にも寝入ってしまったらしい。宮元と仕事を抜け出し、屋上で一服中に話題にした課長のことが、妙に念頭から離れなかった。夢に現れた老婆の顔と鬼瓦に似た課長の顔とが、少しピンぼけ写真のように重なっていた。
 「雷おこし」の創業者、燕宗次郎(つばくろ・そうじろう)は同郷の知人、蔵前鬼参次(くらまえ・きさんじ)から広大な土地を無償で譲り受けた。その土地に建てた社屋が完成すると間もなく、それを視届けたかのように鬼参次は消息を断った。鬼参次は一介の瓦職人から、鬼瓦を造る企業家に転身して大成功をおさめた。一代で莫大な資産を手にすると、鬼参次は何を血迷ったか唐突に廃業し、海外に出かけたっきり消息不明になってしまった。
 元々、放蕩三昧で家庭を持つこともなく、気儘な生き方が性に合っていたか、五十すぎてもまだ独身を通していたのだから、その変人ぶりは半端ではなかっただろう。鬼参次に顔つきのそっくりな菱岡桜子は、生涯独身を通した鬼参次とどういった間柄だったのか。古河が宮元に問い質(ただ)しても、曖昧な返事しか返ってこなかった。燕社長から、古参社員に口外禁止のお達しがあったとしか考えられない。
 翌日、古河が遅刻して出社すると、社内が騒然としていた。新米から古株に到るまで、仕事を放擲して三々五々、グループを作り、なにやらヒソヒソと話し込んでいた。その中で、独り悠然と菱岡課長の椅子に腰掛け、落ち着いていたのが宮元だった。古河は、宮元の悠然とした態度に驚いた。呆然と突っ立っている古河を、宮元が苦笑いしながら手招きした。それに気づいた古河は、蹌踉めきながら課長席に近づいて行った。
 宮元が椅子から立ち上がり、古河の耳許に顔を近づけると呟くように云った。「菱岡課長が出社しないので、連絡しようとしたが消息不明だ。何か、想い当たるフシはないか……と訊いたところで、新米社員の古河には見当つくまいな」と言いながら、一枚のメモを古河の眼前に突き出した。
 古河はメモを受け取り、数字と記号が文面に踊っているのを眼にしてたじろいだ。一体これは如何なる――そう想いながら凝っと視ていると、脳内で日本語に変換し、読み取れるようになった。「訳あって、退社することに致しました。社長には事情を打ち明け、次期課長に宮元さんということで、了解をいただいています。どうか、会社の発展に今後も貢献してください、心からのお希いです」と書いてあるのを読み終わり、古河は理由もなく熱いものが込み上げてきて、想わず武者震いをしてしまった。
 「気づいたと想うが、俺たちは深宇宙から飛来した、訳の分からない知性体の結社に強制加入させられたんだ。この手紙を読めるのは、この会社ではほんの数人に過ぎない。他社でも似たり寄ったりらしい」そう言いながら、宮元は煙草の箱を机の上で倒したり起こしたり、落ち着かないこと甚だしい。どうやら、動転しているのは古河だけではなかったのだ。
 「社長はもちろん、ご存知なんでしょうね」其処まで言うと、古河は何に驚いたか、跳び上がるような振る舞いをした。
 「ご存知どころか、燕社長は言うまでもなく、蔵前鬼参次や菱岡課長も、その訳の分からない知性体ってことだ」そう言いながら、宮元は何気なく煙草を取り出したものの、喫うのを諦めて、指に挟んで弄(もてあそ)び始めた。
 宮元の指の間を行ったり来たりしていた煙草は、其の中に宮元の手を離れ、何処へか消えてしまった。宮元はニヤリと笑うと、空間から一本の煙草を取り出した。
 「さて、これが消えてしまった煙草と同一かどうかは、確かめようがない。銘柄は一致しているがな……いずれ、制御できるようになるだろう」そういうと、宮元は机に突っ伏して寝入ってしまった。
 電器メーカー「雷おこし」の13階建て自社ビルディングは、屋上だけが地上に露出し、後は全階地下に潜った状態だった。工事に際し、地下には膨大な鬼瓦が眠っており、できるだけ毀損しないようにしながら掘削を行なったという。鬼瓦を掘り起こして、廃棄処分にするのが最も容易かったが、燕社長の号令で地下に眠らせておくことになった。唯一、地上に露出した屋上の壁面全体にだけは、魔除けとして鬼瓦を貼り付けてあった。
 もし、行楽客が運悪く同地に迷い込み、森を彷徨(さまよ)った挙句に、鬼瓦が睨んでいるのに出っ会わしでもしたら、動転するあまり一目散に逃げ去ることだろう。悪意を抱いて、「雷おこし」のビルディングを目指したのではあるまいが、そのような眼に遭う行楽客には気の毒なことだ。

⒑ 『契約』
 世の中広ろしと雖(いえど)も、新興宗教の教祖ほど怪しげな人物はいるものではない。大法螺吹き、詐欺師、狂人――等々。化けの皮を剥いでみたら、教祖の正体は似たり寄ったりの曲者、食わせ者ぞろいということになるだろう。狂人同然の怪しげな人物に会い、世迷い言を聴くほどの苦痛など滅多にあるものではない。ところが、その災いが新米社員の及川に降りかかってきた。和製ラスプーチンの異名を持つ教祖様に面会し、有難い御託宣を拝聴してこいとの社命だった。駆け出し営業マンの及川喬一(おいかわ・きょういち)にとって、どのように取り繕っても言い逃れできない事態だ。
 月々の営業成績を個々にグラフ化し表示していて、誰が貧乏籤を引くことになるかは歴然としていた。成約件数最下位の及川にとって、毎日の出社は三途の川を渡るよりも恐ろしいことだった。教祖様に取り入って、あわよくば契約を取り付けるようにとの、上司からの有無を言わさぬ指示だ。しかも、タイヤがパンクしたりエンジンが焼け付くかも知れないポンコツ営業車を運転、妖怪が跳梁跋扈していても可怪(おか)しくない山奥の、さらに山奥深くに在るという、廃屋同然のあばら屋に詣でろというのだから、ヴェテラン営業マンは誰も名乗り出ないのは当然だ。
 がっしりした体格の及川を誰かが視て、外観と裏腹な内気で臆病な奴と知ったら絶句したことだろう。内勤よりも外勤に最適な体育系に視える――及川が小心者と知る者は当人を除き、営業部門に誰一人いなかった。当人にとっては不運に違いない。おまけに当日に限って、真夏だというのに肌寒く、どす黒い雲が天空に貼りつき、しかも龍がとぐろを巻いてでもいるような薄気味悪さ。まるで、小心者の及川を嘲笑うかのような空模様だった。
 ポンコツの営業車のボンネットを開け、エンジン周りやオイルの有無を点検し、タイヤを蹴飛ばして空気圧が十分かどうかを確かめ――そこへ、鬼のような面相の営業課長が爪楊枝を口に咥え、木枯らし紋次郎気取りでやってきた。及川が靴音に気づいて振り向くと、課長が何時もになくニコニコ顔で近づき、だみ声でブツブツと何事かを呟いた。どうやら、及川が首尾よく成約できたら、最下位から最上位の成績になるだろうとのご託宣らしい。それは運が好ければであって、及川にそんな強運が舞い込むはずはなかった。課長にしてみれば、及川を他部門に厄介払いできる好機到来だった。
 課長は言いたいだけいうと、及川の肩をポンと叩いて、鬼のような面相ににやけ顔を貼り付け、降り始めた雨を避けるかのように社内に駆け込んだ。営業部門から叩き出したいなら叩き出してみろってんだ。こうなったら、ラスプーチン様に平身低頭してでも契約に漕ぎ着け、あの鬼野郎の鼻を明かしてやる――及川はいつもになく弱気から強気に豹変し、駆け込んでいった課長を睨みつけると、車に乗り込んでイグニション・キーを操作した。ブルルン、ブルルン、プスプススス――勢いよくかかったと想った途端、エンジンは停まってしまった。
 車まで莫迦にしやがって、爆発、炎上しようがどうしようが、とにかく走らせてみせるぞ、このポンコツめ。独り言をいいながらエンジンを再始動し、アクセルを乱暴に踏み込んだ途端、車は轟音を上げて走り出した。及川はハンドル操作しながら、左右を視認して車道に出た直後にきづいた。そういえば、アクセルを踏み込む前にクラッチに触れもしなかったな。マニュアル車なのにオートマティック車と同じような振る舞い――まるで、この車は俺の意思を読み取ったようではないか。そう想うと同時に、及川は背筋にゾクっとする戦慄が走るのを感じて仰け反り、ハンドルを握る両手がブルブル慄えているのに気づいて怖気(おぞけ)を慄った。片手運転しながらダッシュボードを開け、煙草を取り出して口に咥えると火を點けた。
 騒々しくごみごみした街路を抜け、郊外にさしかかってから、車を路側帯に停めて行く先を地図で確認する。地図そのものが古ぼけている所為か、目指すインチキ教祖の屋敷が視つからない。なんでも、北の方向目指して行って、古色蒼然たる綠青(ろくしょう)の浮いた銅板――そいつが道端に建っているはずだから、その標識を探せとのご託宣だった。相変わらず天空には龍がとぐろを巻いたような、薄気味悪い雲が厚く垂れ込め、今にも稲妻が走って土砂降りになりそうだった。なんとか方角を定め、及川は車の不機嫌そうなエンジン音を聴きながら、郊外を走る砂利道からさらに整地の悪い脇道へと車を乗り入れた。
 ダッシュボードを引っかき回し、好みに合いそうな音楽CDを探した。どれもこれも府抜けたような音楽ばかり――そう想いながら手にしたCDのタイトルを視て、及川はオーッと喊声(かんせい)を上げた。それは、学生時代に同室者らと聴いた、昔懐かしい『メタル・マスター』なる、ロック界で異彩を放つスラッシュメタルの勇、メタリカのアルバムだった。ヴォーカリスト兼ギタリスト、ジェイムズ・ヘットフィールドの雄叫びが車内にガンガン反響した。「オベイ・ユア・マスター」なる歌詞が繰り返し繰り返し、及川の耳に跳び込んでくる。「マスターに従え」のマスターとは、一体ぜんたい如何なる存在か――此処でいうマスターは単なる主人ではない。絶対服従を強制する厳格、過酷な権力を振りかざす悪の権化に他ならない――及川の独断と偏見に満ちた解釈ではそういう意味になる。
 神様の姿はどんなだろう――まだ独自の考えも持たない小学生時代、及川は反り返って仰いだ青空に、柔和な表情のほとけ様を想い描いたものだった。その後、興味の赴くままに読んだ数冊の書籍から、この世は善だけで成り立っているのではないことを知って、暗澹たる気持ちになった。たしかに、現世では人によって、善意を曲げて解釈したり、敵対心を抱いたりもする。善意だけの世界なら、悪意などといった対立する概念の出る幕はない。実際には、世界の何処かで生存をかけて絶え間なく闘いが繰り広げられている。殺人が日常茶飯事の世界――それが現世の実体だろう。
 道路の両側に生える巨木が、拗(ねじ)くれ節くれ立った枝を延ばして日光を遮り、それでなくても昼なお暗い山道を尚のこと暗くしていた。いきなり野生の鹿やら小動物が跳び出してきたら、及川の未熟な運転技量ではとても躱(かわ)せない。ビクつきながら運転すること数十分、やがて、銅板を打ち付けた標識らしいものが視つかり、車をあやすようにしながらその傍に停めた。ギシギシと耳障りな音をたてる車のドアに体重をかけて開け、標識に近寄っていって怪しげな書体の文字を眺めた。銅板に刻印した奇妙な文字――それには、「無名聚落、大字過疎邑(かそむら)まであと5分」とあった。眼を凝らしてよく視ないと、読み取れないほど古色蒼然とした、何時の時代とも知れない銅板だった。
 それからどのくらいの間、ハンドルを握っていただろうか。標識には確か、「あと5分」とか表示してあったのに――そう想った直後、車がなんの予告もなく停止してしまった。ガソリンを満タンにしておいてこのざまあ、ポンコツめが勝手にストライキを起こすとは忌々しいなどと、ぶつくさ言いながら、それでも意を決してショルダーバッグを肩に架け、軋み音を立てるドアに体当たりを喰らわせて開けた。一陣の風が樹間を過ぎって枝を震わせ、樹木同士が恰も囁き交わすかのようなゾクっとくる妖しい音を山間に響かせた。
 根が臆病な及川は眼を瞠り、肩いからせて虚勢を張ると、デカい図体を少しでも小さく視せようとしながら歩き出した。何から逃げようというのか、大柄な及川がいくら身体を屈めようと、野生の肉食動物なら忽ちにして及川を嗅ぎ分けるだろうに。及川はできるなら、この場から逃げ出してしまって何処へか隠れていたかった。そんな調子だから営業成績が上がらず、万年最下位の体たらくなのに――。何かが、及川の頭上を風を切って通り過ぎた。その音に驚いた及川は、首を竦(すく)め身体を屈めると、飛び去ったものの正体を視極めようとした。
 樹間をうねりくねりながら奥へと続く山道を歩く中に、進行を妨げるように延びてきた枝に一羽の梟が止まり、金色に輝く眼球を及川の方に向けてホーホっホーホっと啼(な)いた。何も恐れることはない、わたしに随(つ)いておいでなさいとでも言ってるらしい、梟のその啼き声は及川を勇気づけた。及川が歩いて行くにしたがって、その梟は枝から枝へと飛び移りながら道案内を務めてくれ、いつの間にか目指す教祖の邸宅の門前に辿り着いた。気がついたら、樹間から煌々と照った月が顔を出し、辺りに黄昏(たそがれ)時の明るさを齎(もた)らしていた。
 呆然と佇んでいた及川が、傍に人の気配を感じて振り向くと、眼を金色に輝かせた若い女が巫女の形(なり)をして微笑んでいた。学生だった頃、少しのあいだ交際っていた井上顕子によくている――そう想いながら記憶を辿る中に、顕子が突然病死したのを憶い出して全身に戦慄が走った。巫女はそんな及川の臆病さ加減を、笑うかのように皮肉の籠もった笑顔を向けると、中へと及川を導いた。
 邸宅は住居というよりも、外国の寺院に近い造りの建物だった。入り口から内部へと入って行った及川は、天空を突き抜けるかのように、遙か彼方にある天井を視上げて眩暈を起こしてしまった。ひょっとすると、天蓋のない柱だけの遺跡なのではないか――ならば、天井などというものはなく、星々が視えてしかるべきだが、そのような煌(きら)めきは何処にも視つからない。
 玉座へと向かって行く及川には、いくら歩いてもその玉座に近づいているようには想えなかった。このまま、死ぬまで歩き続けることになるか、死ぬ覚悟があるなら成し遂げられないこともあるまい、などと考えながら玉座を目指した。先刻まで付き添っていた巫女は、いつの間にか何も言わずに姿を消していた。梟の化身でもあったろうか、それとも及川の幻覚が造り出した蜃気楼の類いだったのだろうか。そう想いつつ両脚を交互に動かす中に、わずかながらも玉座に近づいている感覚が生じてきた。その一瞬後、及川は教祖と顔衝(つ)き合わせることになり、驚愕のあまりに仰け反った。
 「よくおいでになった。儂が面会する相手は、この世にもあの世にもそう多くはおらん。気を楽にして儂の聞き手になられい。輩下の者どもが何やら馳走を用意いたそうから、楽しみに待っておったら宜しかろう」破れ鐘のような声が玉座から発して天空を突き抜け、一周して屋内に耳障りな谺となって轟いた。話す度に、教祖の貌は声量に同期して巨大化したり矮小化したり、拝聴している及川は安酒を呑みすぎた時に味わう宿酔の気分だった。こいつは、トンデモナイことに関わってしまったかな。訳の分からない呪いにかかり、3次元映像を無理強いに観せられた上に、ヤクが切れて七転八倒するヤク中と大差ない。
 そうこうする中に、周囲が騒がしくなり、視護婦や医者の身形(みなり)をした大勢の人影が及川を取り囲んだ。及川はいつの間にか手術台の上に仰向けになり、白衣の面々が視下ろしているのをボンヤリと眺めていた。左腕にチクりと痛覚があったと想いながら遠のく意識の中で、なぜか己れの腹部から臓器がなくなって行くのを視おろしていた。遙か彼方に小さく視えていた教祖の貌が、なんの前触れもなく及川の面前に現れ、その巨大化した貌の半分を占める口から迸る破れ鐘のような声を轟かせた。
 「ま、そういった訳でだな、儂は株式投資に資産の1/3を割り当てることに決意した。明日、早々に投資に必要な額を口座に振り込むので、手配してもらいたい。では、これにて儂の話はおわりだ。気いつけて帰るがよかろう」そういうと、及川の間近にあった容貌魁偉な教祖のデカい貌は、風船が萎むように急激に小さくなって消えた。
 半ば朦朧とした意識で教祖の邸宅を出た及川は、真っ暗な中を覚束ない足取りで歩き始めた。何本かの巨木の拗くれた枝が前方を塞ぎ、暗闇の中で危うく額をぶつけそうになって振り向くと、先刻の梟が眼を金色に輝かせて及川を視下ろし、ホーホっホーホっと啼いて視送る素振りを示したかに視えた。気いつけて帰りなさいとでも言ってるようなその仕種に、及川は想わず最敬礼をしてしまった。昼なお暗い山道を、大きな図体を少しでも小さく視せようと屈むように歩きながら、乗り捨てた車を探して彷徨く中に、薄気味悪い廃屋の前に出てしまった。近づいて行って確かめると、それは火葬場だった。
 ゾクッと寒気立ち、及川は慌てて火葬場を後にすると、坂道を転げるようにして帰路を急いだ。及川の恐怖は頂点に達しかけていた。背後から寒風が吹いてきて、首筋に凍った手の感触を覚え、倍加した恐怖に屈服して絶叫を上げてしまった。営業課長や同僚が傍にいなかったのは幸いだった――及川が如何に臆病な人間であるか、自身を除いて誰もいないのだから。そう想いながら曲がりくねった夜道を歩いている中に、乗り捨てたポンコツ車の前に出た。
 今の及川には、何処をどのように歩いて辿り着けたのか、いくら記憶を遡って行っても解けない謎だった。ショルダーバッグを助手席に放り込み、運転席の方に回り込んでドアを力任せに開け、エンジンをかけてアクセルを踏み込んだ。今回もやはり、クラッチを操作せずに走行し始めた。及川は、このポンコツ車は俺様をマスターと思い込んでいるに違いないと確信した。
 学生時代にアルバイトで貯めた貯金を株式投資で倍々増させ、その後も投資で想像つかないほどの利益を上げた及川は、大学に入学して数ヶ月後に新築したての洒落た一軒家を入手、気儘な独身暮らしを満喫した。卒業後も、そのまま住み続けて現在に到った。車を庭先に乗り入れ、玄関の錠を開けて中に入ると、早速シャワーを浴びて汗を洗い流した。寝室に入って暫し微睡(まどろ)み、目覚ましの助けなしに早々と起床して出社の準備をした。大変な一晩だったが、教祖から契約を取り付けたし、これで営業マンとして終わりだろうと何もいうことはない。
 早朝、及川が車を運転して出社したところ、課長を含めて営業課の全員が拍手をもって迎えたのには驚いた。営業成績最下位の自分を、拍手で迎えるとは一体どうなっているのだろう。課長が何時もになくへりくだった様子で近づいてきて、「部長、永の海外出張おつかれさまでした。さあさ、バッグをお持ちしましょう」鬼のような課長が自分を部長だとか、永の海外出張とは何のことだ。及川は訳も分からず、それでも部長室と表示のあるドアを開け、おそるおそる中に踏み込んで行った。
 巨大な姿視のある前に立った及川は、姿形はそのままにも拘わらず、何かしら他人を眺めているような気分に陥った。及川は鏡に貌を近づけ、両眼を瞠(みひら)いて己れをよく観察すると深く息を吸い込んだ。及川自身の眼が金色の光を放っていたあの梟の眼にそっくりなら、貌つきはあのインチキ教祖の面構えになんとなく似ているではないか。一晩の恐怖体験が、己れを得体の知れない怪物に変えてしまったのだろうか。どうやら、山道を彷徨(さまよ)っている中に別の世界に嵌まり込んでしまったに違いない。それならそれで結構、以前の弱虫からタフガイに変わった訳だ。どのように生きるかは、これからじっくり考えることにするとして――取り敢えずは一服といこうか。

⒒『獣道』
 鷲尾徹太郎は幼少期から教科書に不信感を抱き、学校帰りに街中にある書店に通い詰めて参考書を立ち読みし、両親にせがんではこれはと想う参考書を買い揃えていた。当然、同じ教科の参考書が何冊も揃い、著者によって書き方の違いがあるのがそれぞれに面白く、級友が遊びに誘っても外出したがらず、逆に誘いにきた級友を家に呼び込んで、参考書の読み比べをする始末だった。徹太郎とは一つ違いの妹の杏子は、兄とは違って偏(かたよ)った考えを保たずにすくすくと育ち、将来は小学校か中学校の音楽教師を目指していた。国語は勿論のこと、算数に異常なほどの愛着を示す徹太郎に、これまた音楽に異常なほどの情熱を傾ける杏子は相性の点で申し分なかった。
 フランスの指揮者ジャン・フランソワ・パイヤールは、大學で数学教授を務めたのち、バッロク音楽の指揮者となって活躍した。パイヤールは「数学と音楽は似通っている」と言っており、自ら音楽家に転向することで持論を証明した。物理学者に言わせるなら、音楽ばかりか宇宙そのものが数式で成り立っている世界とのことだ。お告げの中には、全文が数字、記号から成る「神示」という誠に有り難いお言葉もあるそうだ。数字と記号だけのお告げなるものを、読み解く特殊な能力を持った霊能者と称する、特殊能力者が「神示」なるお告げを、読解可能な文章に書き直した文献は、書店を介して容易に入手可能であるらしい。
 両親は、日曜日ぐらいは外で野球でも楽しんだらどうかと想いながら、さして貧弱でもない息子の体格を診て、学校まで走って通っているのだし、まあ余計なことは言わない方がよかろうと黙ってしまうのが常だった。知能指数は最上位なのに学業成績はあまり振るわず、そのことでは幾ばくかの不安はあった。しかし、旺盛な読書欲を考慮して、両親はこれまた余計なことは言わないでおこうと想うのだった。ルイ・ドゥブロイなる理論物理でノーベル賞を受賞した、イタリア系フランス貴族は大學で文学を専攻、兄の実験室に通う中に、理論物理に転向し、物理学者として大成した希有な人物だった。
 その理論物理学者に倣うならば、我が家の徹太郎だって、将来、偉大な学者になることだって不可能ではない。嫌いな教科には眼もくれず、まだ小学校低学年にも拘わらず、中学、高校の参考書を買い揃えていた。数学と国語の参考書が書棚の大半を占める異常ぶりに、級友は只々驚き呆れて言いたいことも言わずに、徹太郎の読み比べ作業に協力する始末だった。ところが、その徹太郎に異変が生じ、両親はおろか級友までをも呆れさせることになった。夜中の2時過ぎになると、両親の止めるのもきかずに外出し、何処へ行くのか明け方まで帰ってこないのだ。本人は大気の調査などと言って胸を張っているが、帰宅した時の疲労困憊ぶりは尋常ではなかった。
 なにか事件でも起こさなければよいが――両親は徹太郎の異常な行動をハラハラしながら視ているばかりで、これといった対処もせずに過ごしていた。徹太郎は疲労困憊している割には食欲旺盛で、相変わらず走って通学していた。両親としては世間体を考え、表沙汰にならないようにそれなりに心配りをしていた――その中に困った行動もとらなくなるだろうと、儚い期待を抱いて。奇行に走らなければ、他人様に迷惑をかけさえしなければ、何事もなく学校を卒業し大学に進学してくれれば、両親としては何も言うことはないのだが。
 ある日の午前2時すぎ、例によって徹太郎は両親と妹の熟睡したのを視届けると、ジャンパーにジーパンの恰好で裏口からこっそり外出した。徹太郎は軽くフットワークを効かせながら、ジョッギングする振りをし、車道から逸れて山道へと入って行って全速で駈けた。まるで追撃を躱すようなその行動は、端からは逃亡者を視る想いがしたにちがいない。小学生に過ぎない徹太郎の、何処にそんな体力があるのか不思議なくらいの驚速ぶりだった。結局、両親や妹が起き出して、徹太郎の行く先を突きとめようとしても不可能だった。
 徹太郎は、両親や妹が後を尾けてくるのを予測し、眼を瞑(つむ)っていても通れる、馴染みの山道を走りに走って追いつけないようにしていたのだ。ある日、妹の杏子が兄のジャンパーに、超小型の発信器を取り付けてみてはどうかと提案した。両親は半ば諦めていただけに、願ってもないとばかりに早速実行に移すことにした。徹太郎と杏子が学校へ行ってる間に、母の由貴子が襟の裏側にフィルム状の発信器を、縫い付けておくことになった。徹太郎がいくら用心深くとも、よもや襟の裏側に殆ど重さを感じないほどの軽い発信器が、取り付けてあるとは想像もしないだろう。午後十一時すぎ、両親と妹の杏子は、徹太郎が発信器に気づかないよう祈って床に就いた。
 発信器からの信号を受信できる範囲はせいぜい、半径三キロメートル以内とのことなので、追跡するのはそう簡単ではない。日頃ジョッギングで鍛えた父の兵衛門にとっても、暗がりの中を追跡するとなったら難儀この上ないだろう。しかし、泣き言をいっさい言わない兵衛門は、ジョッギング・シューズをベッドの下に隠し、眠ったふりをして息子が起き出すのを密かに待った。由貴子は兵衛門の隣で毛布を被り、己れの至らなさを嘆き、悲嘆に暮れて忍び泣いていた。善良なばかりに、いっそう自責の念に駈られ易い由貴子は、息子が昔通りの明るく活発な子に戻ってくれるよう祈るしかなかった。
 二階の寝室で耳をすます兵衛門には、一階を密かに動き回る徹太郎の足音が聴こえていた。枕元の時計は午前二時すぎを指している。裏口のドアを閉める音が聴こえてきたのを合図に、兵衛門はベッドから起き出すと大急ぎで着替え、ジョッギング・シューズを持って一階へ駈け降りた。受信器をジャンパーの胸ポケットに入れ、イアフォンを左耳に差し込んだ。発信器の信号が受信器からイアフォンを通して聴こえてくる。目標までの距離を音の強弱ではなしに、リズミカルな低音で発信音を生成するところが、この受信器のユニークな処だった。対象とする相手に、発信音が聴こえないような設計になっているのだ。接近しすぎても、気取られないので安心できた。
 兵衛門は裏口でジョッギング・シューズを履き、ドアをそーっと開け閉めして外へ出ると、発信源を辿ってできるだけ音をたてないようにして走り始めた。車道を走ること数分、発信音が小刻みにリズムを奏で、目標である徹太郎が方角を変えた模様を伝えてよこした。兵衛門は車道から曲がりくねった上りの山道に分け入った。リズムによって遠近や方角を表現するなど心憎いばかりだ。杏子は何処からこういった独創的な製品を視つけてきたのだろうか――流石、音楽教師志望のことだけはある、などと兵衛門は感心しながら走り続けた。ゆっくりしたリズムが擬似的なメロディとなって、イアフォンを通して聴こえ、徹太郎との間隔が二キロメートル以内と推測できた。
 皮膚に伝わってくる軽い振動に気づき、徹太郎は誰かが追いかけてきているのではないかと想いながら、軽快に暗闇に近い山道を上へ上へと走り続けた。もし、追ってきているのが父だったら、心臓に問題が起こらないよう祈るだけだ。尾けてきているのが変態野郎なら、二度と邪な情欲に溺れないように八つ裂きにしてやらねば――。徹太郎の本心を知ったら、級友や教師ばかりか品行方正な大人までが、怖れをなして遠ざかっていくだろう。大人なんてどうでもよいが、仲良しの級友までが敬遠するようになったらその時はその時だ。不本意ではあるけど、この世で友人なしの孤独な一生を終わるのも悪くはない。
 厳密にいうなら、人間どころか如何なる生命にも孤独は存在しない。なにしろ、神様が四六時中、この世からあの世に到るまで、厳しくも思い遣り深い眼差しで視回しておいでなのだ。しかも、良い行ないから悪い行ないまで細大漏らさず記録に残すのだから、言い訳も逃げ口上も一切とおらない。誤魔化そうものなら、舌を抜かれた上に、釜茹での罰を喰らうにちがいない。丁度よい湯加減にして欲しいと、厚かましい希いをしてみても無駄ってものだ。罰を喰らう覚悟で悪事を働くなら視上げたものだが、凶悪な奴ほどその場になったら、竦み上がってしまうのだから笑止千万だ。
 兵衛門はリズミカルな信号音を聴きながら、うねりくねった山道を上がり続け、やがて樹木の密生した平地に入った。相変わらず発信音は聴こえてくるが、徹太郎がどの辺りを走っているやら見当つかない。辺りの様子が一変していた。兵衛門は闇の中に葡萄園が視えるのに驚き、その葡萄園を取り囲むように堀があるのに気づいた。水を湛えた堀に妖気を感じて視おろすと、なにやら水面に浮き沈みしていた。兵衛門は人形だろうかと想いながら、近づいていって確かめてみた。それは頭を擡げ、真っ赤な眼で兵衛門を視据えると、剣歯の生えた口を大きく開けてニタニタ笑った。動悸が高鳴り、恐怖が頂点に達するかに想った瞬間、兵衛門は神殿の中に佇んでいた。
 徹太郎が誰かと話している話し声が、周囲一帯から聴こえてくるのに気づき、辺りを視回してみるが何処にもいない。兵衛門の意識の中に広大な宇宙が広がり、荘厳な楽曲が一定のリズムを刻みながら轟いた。その楽曲に合わせるかのように、徹太郎が何者かに向かって話すのが聴こえてきた。徹太郎の声は澄んでいて、荘厳な楽曲の中を縦横無尽に飛び交った。その声を追いかけ、地の底から噴き上がるように、地響きする声が大音響を発した。やがて、荘厳な楽曲や澄んだ徹太郎の声、さらに地の底から噴き上がる声のすべてを、鋭い風の音が天空をズタズタに斬り裂きながら掻き消してしまった。
 視護婦が注射器を乗せたトレーを手にしてベッドに近づくと、太い注射針を兵衛門の腕にブスリと刺した。兵衛門はあまりの痛さに、大声を上げようとして徹太郎の眼と合ってしまい、吐き出そうとした息を飲み込んで噎せ返った。立派な口髭を蓄えた徹太郎は、「親父、夜中にジョギングするなんて無謀な真似は当分お預けにしないと、死んだおふくろに申し訳たたないぞ」と言った。なんだと、由貴子が死んだと言ったのか、徹太郎。それにしても、その髭はなんだ、みっともない。ジョギングして山道に入っていって迷ってしまい、気づいたらこのざまあだ。まだ小学生だった徹太郎がいきなり髭を生やして儂に説教するとは、いったいどうなっているんだ。
 そうか、どうやら天国かそれとも煉獄、地獄――なんと呼ぼうと、こいつは幻覚にちがいない。あの発信器と受信器、それにイアフォンさえ探し出せたら、すべてがまやかし、茶番劇と分かるのだが――。おやおや、いい女が近づいてきたと想ったら杏子じゃないか。ずいぶん大きくなった上に、丸で王女のような身形をして。「お父さん、具合はいかが?退院したら、わたしの演奏会を観にきてね。夫も心待ちにしているのよ、お父さんに会うのを」誰の許しを得て、まだ若いのに所帯を持ったり。儂に断りなしに、何処の馬の骨とも知れない奴を亭主に迎えるなんて、怪しからん。
 複数の人の話し声や犬の吠え声が、初めは微かに、やがて騒々しいほどのざわめきとなって聴こえてきた。頸筋に凍えた鉤爪が触れたような痛みを伴った冷気を感じ、兵衛門は跳ね起きて辺りを視回した。徹太郎が警察官を4、5人したがえ、懐中電灯で兵衛門の顔を下方から照らした。「お父さん、こんな処で何してたの?寝室に行ってみたら居ないので、お母さんに留守番を頼んで、杏子と一緒に探し回ってやっと此処に辿り着いたの」そういうお前こそ何処に行っていたんだと言いかけ、兵衛門は複数の警察官が周りを取り囲み、心配そうに視ているのに気づいて黙り込んだ。
 年配の警察官が、子供にでも話すかのように兵衛門に話しかけた。「気がついて好かった。徹太郎君や杏子ちゃんが交番に跳び込んできた時には、何事かと驚きましたよ。捜索となったら一人や二人では無理ですから、シェパード犬まで動員し、兵衛門さんをやっとのことで探し当てたって訳です。どうして、こんな処に倒れていたんです?」兵衛門は、なんと説明したら信じて貰えるやら分からず、しばらく黙り込んでいた。どうしたもこうしたもない、気づいたら傍に大勢が集まっていた。誰かを追いかけていたのは覚えているのだが、それが誰なのか憶い出せないのが解せない。胸元に手を当てて機器らしいものを探したが視当たらず、耳に当てていた何やらもなくなっていた。
 辺りが明るくなってきて、大気温度がゆっくり上昇し始めた。徹太郎と杏子は、兵衛門の手をとって家の方に向かった。兵衛門は膝のふらつくのを何とか堪えながら、二人に手を引かれるままに坂道を降りて行った。警察官らはシェパードを従えて叢の捜索に熱中し、三人を引き留めようともしなかった。他にもっと気懸かりな兆候にでも気づいた様子だ。いつの間にやら、兵衛門の倒れていた周囲に、立ち入り禁止のロープが張り巡らされ、軍の制服に身を固めた一個小隊が立哨任務に就いていた。警察官も国防軍軍人も、軽はずみに真相を口外するはずはないが、UFO絡みの事件と診ているのは明らかだった。
 兵衛門は帰宅後、一階の居間でソファに心配顔で座っている由貴子に会った。由貴子の強ばった笑顔に、兵衛門は一瞬だがたじろいだ。警察署や軍情報部から何者かがやってきて、当人は否定しているが、留守番をしていた由貴子に何やら根掘り葉掘り問い質していったにちがいない。兵衛門が記憶喪失に陥っているなら、格別に口封じをする工作は必要なかろうが、神経質な由貴子を黙らせるためには警察や軍情報部は、少々人間性を逸脱する行為に及んだかも知れない。由貴子が頑ななに押し黙っているのが何よりの証拠だ。兵衛門は身内に怒りがふつふつと煮え滾(たぎ)るのを覚え、全身をブルブル震わせて今にも卒倒しそうだった。
 元はといえば、徹太郎が夜毎、夜毎に山中を彷徨う、狂気じみた行動を繰り返したのが発端だった。そうかといって、まだ小学生の徹太郎を問い詰めたところで、明確な回答を引き出せるはずもなく、まかり間違えれば虐待の非難を浴びかねない。隣近所の煩さ方が、あらぬ噂を撒き散らすことにでもなったら、如何な忍耐強い兵衛門でさえ堪忍袋の緒を切らすだろう。徹太郎も杏子も銘々の部屋で眠りに就いていて、家の中は通夜の晩かと想えるほど深閑としていた。兵衛門が立ち上がって、由貴子の肩にそっと触れた直後、由貴子は何かから逃げるようにして、兵衛門をこれまでにないほど驚かせた。
 午前4時を過ぎていたが、疲労困憊のあまり起きていることも儘ならず、二人は手に手を取って二階の寝室へと向かった。徹太郎や杏子には、しばらく登校を中止し、部屋で自習して貰うことにしよう。学校の方ではどの道、ニュースでそれとなく知った学童らが噂し合うにちがいなく、ほとぼりが冷めるまでは休学にしておくのがよかろう。寝室でうとうとしながら、夫婦間で話し合った結果はそういう処に落ち着いた。なにはともあれ、起床は6時が定刻なので、それまでは仮眠を摂っていられる。少しでも、体力を温存しておかないと、これからどんな事態が出来(しゅったい)するか想像もつかない。
 製鉄業を生業とする兵衛門は、創業者として健全、順風満帆の安定した企業にするべく日夜苦闘していた。合金の製法特許を数件保有する兵衛門にとって、画期的な合金を造り出すのが生涯の夢だった。あと一歩で、夢のような合金を手にすることができるのだ。小型の溶鉱炉を前にして従業員の先頭に立ち、兵衛門は合金造りに専念していた。溶鉱炉から発する高熱が、皮膚を焼き尽くす勢いで発散してくる。熱い、なんという熱さだろう、焦熱地獄とはこのことか……そう想いながら額を拭おうとして眼が醒めた。寝室の中は、真夏でもないのに摂氏40度を超えていた。エアコンを停めておいたのがいけなかったか、このままでは二人とも蒸し焼きになる。
 兵衛門はベッドから起き上がってスリッパを履き、酸欠に苦しむ魚のように口を開けて喘ぎながら、出窓に近づいて行って眼一杯に開け放った。熱風が寝室内部にドッと押し寄せ、次いで兵衛門はもちろん、ベッドの毛布の中で微睡んでいた由貴子も文字通り蒸し焼きになっていた。住宅全体が燃え上がり、広大な天空を紅蓮の炎が嘗(な)め尽くして太陽光を遮った。数台の消防車が急行した時には、住宅はわずかな塵芥を残して跡形もなく蒸発してしまっていた。2、3の地方紙が伝えるところによると、兄妹の遺体は灰の中からは検出できず、鷲尾夫妻の遺体と想われる瑠璃色をした硬い石が2個、焼け跡から視つかったという。
 一頃、兄と妹と想われる二人連れが、繁華街の舗道を嬉しそうに、手を繋いで歩いていたとの噂が飛び交った。しかし、非公式情報の例に漏れず、二人の行方を知る者のないまま、今回の謎めいた事件は忘却の彼方に霞んでしまい、ありきたりの日常に戻っていた。
〈完〉

« 『140字小説』 | トップページ

ホラー」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/2217749/68055782

この記事へのトラックバック一覧です: 『掌編小説集』:

« 『140字小説』 | トップページ

フォト
無料ブログはココログ